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小説 「雨の動物園」

 雨の動物園

 

 

 上野動物園に来ていた。天気はうす曇りから弱い雨に変わった。

 

 香織さんは傘を持っていなかったので、僕が駅前で買ったビニール傘の下、二人で並んで歩いた。

 

 並んで歩いたといっても、僕は体の半分が濡れていた。香織さんは僕の恋人ではなく、僕の親しい先輩の恋人だからだ。

 

 先輩は香織さんとの約束を急遽キャンセルし(それはよくある事だった)、何故か僕に先輩から声がかかり「暇なら香織と遊んでやってくれ」と電話があった。それが彼女への穴埋めになると思っているのか、ひそかに香織さんに憧れている僕の事をただからかっているのか、先輩が何を考えているのかは分からない。そういう人なのだ。彼女もよくあんな人と付き合っていられる。

 

 香織さんは先輩の代わりに僕が来た事に対して、さして驚く風でもなく、そして僕とこうして奇妙なデートをする事に特に不満に思っているわけでもなさそうに見えた。ただ彼女は純粋に、今日は動物が見たかったらしい。

 

 しかし、よりによって雨。どうしてこんな日に動物園なんか行きたがるのか、僕には先輩同様、香織さんの気持ちもまったく理解できなかった。要するに、結局おかしなカップルというわけだ。

 

 もし雨の日に動物園のデートを考えている人がいるとするなら、あらかじめおすすめしないとだけ言っておこう。

 

 雨の日は服や靴が濡れるという理由はもとより、大半の動物達が宿舎のような所に入っているので、動物園としては半分しか機能していない。しかもゾウやキリン、ライオンなどの、動物園的には目玉商品である大型動物が見れないのは、残念としか言いようがない。猿山のサルたちも、皆雨のかからない場所で、どこか暗い顔つきでぼんやりしている。

 

 それでもいくつかの動物は、宿舎のような中で見物する事はできる。それがせめてもの救いだ。僕らは傘を閉じ、カバとかトラとか、多少迫力ある動物を見物できた。彼らは閉鎖的なコンクリートの空間で雨を憂う表情をしながら(少なくとも僕にはそう見えた)、気だるそうにしていた。

 

「あ、シマウマの赤ちゃんがいる」

 

 香織さんがシマウマの檻の前で立ち止まる。

 

 大きいのが二頭。それとそのままサイズを小さくしたのが一頭、一生懸命に母馬の乳を飲んでいた。

 

「かわいいですね」

 

 僕はそう言った。本当にそう思ったのだ。でも香織さんは僕の言葉が聞こえなかったのかどうか分からないが、ただぼんやりと、シマウマの親子の様子を眺めているだけだった。

 

 何分くらいそこにじっとしていただろう。僕らがシマウマの親子の前にいる間、こんな雨の日だというのに一組の若いカップルと中年の夫婦が、僕らの後ろをゆっくりと通り過ぎて行った。彼らはどうやら、シマウマには関心が沸かなかったようだ。

 

 香織さんは一言も喋らず、その場に立ち続けていた。僕も彼女の斜め後ろの辺りで、シマウマの子供が乳を飲み、母馬の周りを歩き回る姿をじっと眺め続けた。

 

「先月、生まれたばかりなんだよ」

 

 後ろから、明らかに飼育員だと分かる作業服のおじさんが僕らに話しかけてきた。

 

「へえ、かわいいですね」 

 

 僕がそう言うと、

 

「まだ名前も決まってないんだ。これから小学生から名前を募集するんだよ」

 

 ニコニコしながら、そのおじさんは説明してくれた。

 

 しかしその間も、香織さんは微笑みながら何度か頷いただけで、結局言葉を一言も発することはなかった。

 

「そろそろ、ここは閉じるんだ。悪いね」

 

 おじさんは僕らにそう言って、奥へ歩いて行った。香織さんはそこでようやくこちらを向いて「じゃあ行こっか」と言ったので、僕らは外へ出た。

 

 雨は相変わらず、音もなく降り続いていた。

 

 僕はまた頼りないビニール傘を開き、香織さんに差し出すと、彼女は「ありがとう」と言って中に入った。僕はまた体の半分を濡らしながら、入り口へ戻る。

 

「楽しかったね」と、おもむろに香織さんが言った。

 

「そうですね」と、僕はやや躊躇して答える。

 

 楽しかった?

 

 うん、楽しかった。そう思おう。

 

「どこかで、メシでも食いませんか?」

 

 僕はそう誘ってみた。温かい物でも食べて、ビールを飲みたい気分だった。

 

「あ、今日これから友達とコンサートに行くの。言わなかったっけ?。ごめんね」

 

「いえ、気にしないでください」

 

 僕らは動物園を出て、他愛もない話をしながら駅へ向かって歩いた。僕の左半分はすっかりびしょ濡れで、体はすっかり冷え切っていた。

 

「優しいんだね」

 

 別れ際に、香織さんがそんな事を言う。僕はどんな顔をしていいのか分からず、ただ曖昧に頷く。

 

「生まれたてのシマウマみたい」

 

 濡れた僕の姿をそう見立てただけなのか、彼女の心はまるで分からない。でもそう言われて、悪い気はしなかった。